リセット・オロペーサの件を調べていくうちに、なぜ昔のオペラ歌手はデブでも許されていたのか?と考えてしまいました。
オペラ歌手にとって大切な事は何か? それは、きちんとオペラが歌える事。まずはこれがクリアされていなければいけません。その上で、声が美しいに越した事はないし、容姿も美しいがいいに決まってます。。
昔…と言っても、オペラが全盛期だった19世紀では、オペラを楽しむのは劇場だけでした。劇場って、客は遠くから歌手を見るわけで、とにかく歌手は派手でなければいけませんでした。衣装は派手に、化粧は派手に…です。体格は…舞台ですから、多少の補正は衣装でできます。太っていても、やせて見せる事は可能だし、痩せていても、ふくよかに見せる事は可能です。とは言え、極端なデブは、いくら衣装の力を借りても、誤魔化しきれませんが、客がそれを認めてしまえば、それはそれでアリですし、おそらく、19世紀のヨーロッパでは、デブなオペラ歌手は容認されていたのだろうと思います。デブであるかどうかよりも、まずはオペラを歌いきれるかどうか…が、当時の大問題だったろうと思われるからです。実際、昔の記録を見ると、作曲家が作った新作オペラが、劇場が用意した歌手では歌えなくて、ダメダメだったという事が多々あったようです。とにかく、歌える事が最優先なので、デブでも何でもよかったのかもしれません。
やがて20世紀に入って、レコードが普及し始めます。レコードは声しか記録しません。となると、今度は声が勝負どころとなります。レコードを吹き込む歌手は、みんな上手な歌手です。歌えて当然です。ならば、美しい声で歌っているレコードの方が、より売れるわけです。ですから、歌っている人が美声ならば、デブでもビヤ樽でも関係がなかったのです。
しかし、その流れは、マリア・カラスの登場で変わりました。
マリア・カラス…当時は、あれだけ歌えて、あれだけ痩せていたソプラノ歌手なんて、そんなにたくさんはいませんでした。痩せた歌手なんて、カラスを含めて、少数派だったので、それまでは特に目立つ事もなかったのですが、カラスは何よりもスキャンダラスで目立つ歌手ですから、まだまだ舞台公演が中心だった時代にも関わらず、客の耳目を集め、みんな、以下のことに気づき出したのです。
…太ったトスカよりも、やせたトスカの方が、美しい。太ったヴィオレッタよりも、やせてヴィオレッタの方が美しい、太った蝶々さんよりも、やせた蝶々さんの方が美しい。…
そして、カラス以降、一挙にテレビや映画が普及して、あっという間にオペラの世界もビジュアルの時代に突入してしまったのです。あっという間に世代交代です。デブな歌手は駆逐されてしまいました。デブでも残っていたソプラノなんて、モンセラート・カバリエぐらいでしょう。
それ以降は、同じくらい歌えるなら、やせたソプラノが仕事を得るようになったのです。何しろ、ソプラノは競争過多ですからね。限られた仕事を大勢の歌手たちが奪い合うわけですから、歌手としての技術を磨くと同時に、容姿も磨かざるを得なかったわけです。結果、ますますデブは仕事を得られなくなる…というわけです。
しかし、競争が緩い世界では、まだまだデブが活躍する余地があるわけです。例えば、ソプラノであっても、ワーグナーを歌える人は限られていますから、そこは多少、おデブでも仕事があります(デボラ・ヴォイトが良い例です)。また、男声歌手は、女声ほど競争が激しくないので、まだまだおデブでも仕事があるし、テノールに至っては、体型以前に、まず歌える人が少ないので、デブだろうが、チビだろうが、醜男だろうが、仕事があるわけです。
要するに、本音で言えば、オペラ歌手は美男美女であるべきだけれど、まずはその前に、きちんとオペラが歌えないといけないのです。今の時代は、オペラがきちんと歌えるオペラ歌手、とりわけソプラノ歌手は大勢いるのです。ですから、きちんと歌える上に、美形であることまでも要求されるようになってきた…だけなんだと思います。
今の方が、競争は激しいけれど、ある意味、舞台芸術的には、まともな時代になってきたんだと思います。むしろ、チビでもデブでも仕事にありつける、テノールの世界は、まだまだ前時代的なんだなって思うわけです。
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