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母の四十九日が終わり、忌明けとなりました

 母が、2015年5月28日に亡くなりました。午前8時過ぎだったそうです。

 病院に見舞いに行った父から連絡が入ったのが、午前9時過ぎでした。それを妻が受けて、職場の私に連絡が入ったのが、9時半頃。すぐに事情を話して、帰宅。その日、たまたま遅出だった息子君(定期試験だったのですが、3校時目からの登校予定だったので、この段階では自宅にいました)は、急遽欠席にしました。

 帰宅して、汗まみれの衣装を着替えて、自宅を出たのは10時半。すぐに父の待つ病院に向かいました。

 病院に到着したのが11時半。すでに次弟が到着していたので、一緒に霊安室に行きました。母は穏やかな顔をしていました。1年ほどの入院生活で徐々に弱っていき、消えるように亡くなったんだそうです。

 末弟がやってくるのを待って、母を病院から送り出したのが午後2時半でした。母を自宅の自室のベッドに寝かせて、これからの事を葬儀社と打ち合わせをして、この日は終了となりました。本来ならば、そのまま実家に泊まりこむべきだろうけれど、私が実家に泊まる事を父は喜ばないので、ひとまず帰宅しました。

 翌日の5月29日は、通夜告別式を執り行うお寺さんや、その他諸々の面倒をみてもらう葬儀社の方と綿密な打ち合わせを行いました。

 田舎ですから、地元の寺以外で通夜告別式を執り行う事などありえず、葬儀社も実家の裏(笑)にあって、隣組のメンバーでもあるので、そこに頼むしか方法は無く、その他にも、土地の習慣やら因習やらもあるわけだし、隣組のメンバーの顔を立てなきゃならない事も多く(そうしないと暮らせないのが田舎ってわけだ)、色々と面倒。

 父は若い時に田舎を離れて、東京に出て、母と湘南暮らしを始めて、私は湘南で育って、今も湘南に住んでいるわけだけれど、父は年老いたら湘南を捨てて、本来の自分の故郷に母と一緒に戻って生活していたので、実家と言えども、私からすると、全く見知らぬ田舎だし「隣組、なにそれ、美味しいの」状態だったけれど、まあ、仕方ない。半分以上、ボケている父の顔を立てて、弟たちとあれこれ葬儀を取り仕切りました。夜遅くなったけれど、実家に泊まるのは父が嫌がるので、疲れたカラダを引きずって、自分の家に戻りました。

 通夜の日(5月30日)は、朝から実家に戻って、末弟と一緒にあれこれ準備をしました。次弟はかなり遅れて到着。なんでも、今夜はこっちに宿を取って泊まるんだそうな。それで宿にチェックインしてからやってきたわけです。私よりも近くに住んでいるのに、泊まりこむのか…。で、兄弟三人で顔を合わせて軽く打ち合わせをして、次弟が宿に戻って休憩している時に葬儀社がやってきたので、母を寺に運ぶことになりました。仕方ないので、次弟抜きで寺まで運んで、父と末弟と三人で葬儀の準備をしました…とは言え、父はフリーダムなので、実際は私と末弟の二人で準備をしたような感じです。

 私は兄弟の中では、一人だけ早めに独立して家を出たので、年老いた父の扱いに関しては、次弟や末弟の方が上手なので、父の面倒は末弟に任せ、私は葬儀社や寺の方を担当しました。それにしても、葬儀に関する風習が、世間一般とはだいぶ違うなあ…。私が田舎のやり方にめまいを起こしている最中、父は坊さんと派手にケンカをしてました。なぜ仏さんの前なのにご住職とケンカしているのか…知りたくもないので放置しておきました(こっちは、それに付き合う心の余裕はありません)。

 そうこうしているうちに、隣組の手伝いの人がやってきたり、ご近所の方々がやってきたり、遠縁の見知らぬ親戚さんたちもやってきました。あれこれと準備が整ったところで、次弟が家族とともに登場。まあ、いいか。

 あれこれたくさんの人(と言っても、大半がご近所の老人クラブの方々ね)が[遺族でもないのに]遺族の控室に集まってきてワイワイ始めました。部屋が手狭になったので、私たち子どもたちの家族は、その場をその人たちに明け渡して、別の部屋で控えることにしました。だって、その方が気楽だし、田舎の人たちの田舎でローカルな話題にはついていけませんから。その代わり、私は、私たち同様にその集団に入れずにポツンとしていた、遠路はるばるやって来られた母の湘南時代の友人たちのお話相手をする事にしました。みんな、オバアチャンですが、子供の頃に可愛がっていただいた方たちなんですね。なんか懐かしい話をたくさんさせていただきました。

 やがて通夜の時間となりました。こちらの通夜は、ほぼ告別式と同じ流れで、ちっとも通夜っぽくないんです。「お前たちの勤め先には絶対に知らせるなよ」と父から厳命されていました(父は自分が知らない人が葬儀に来るのを、とても嫌がっていたんです)が、そういうわけに行かないので、私は「家族葬です」と、末弟は「密葬です」と、それぞれの職場に伝えたので、私と末弟の勤め先からはきちんと花輪も届き、職場の人も代表者だけが通夜にやってきてくれました。感謝です。しかし次弟は父の言葉を忠実に守って、職場には本当の事を言わずに、ただの年休を取って葬儀にやってきたので、会社の人も次弟が葬儀で休んでいるとは知らないそうなんだけれど…社会人として、それで大丈夫か?

 通夜の最中でも、父は(悪気はないのですが、ボケちゃっているので)あれこれとトラブルをメイクしていましたが、きっとそれも、後で思い出せば良い思い出になるんでしょうね。しかし、人間、ボケちゃうと何でもアリだな。

 弔問客を最後まで見送って、母はお寺さんで見てもらうことにして、その日は帰宅しました。

 翌日は告別式です。朝から寺に乗り込みます。やっている事にしろ、集まった人にしろ、昨夜の通夜の再放送のような感じでした。父は反宗教的な人間だし、ド左翼だし、反体制的と言うか、世の中の決まり事には一つ一つ文句を言いたい人だし、地球は自分を中心に回っていると信じて疑わない人なので、またお寺さんにあれこれ難癖つけていたようですが、父のトラブルは末弟と葬儀社さんたちに任せて、私はクビを突っ込まないことにしました。たぶん、私がクビを突っ込むと、問題がさらに複雑化して厄介になるだろうなあって思うからです。ああ、それにしても、聖職者って大変ですね。

 葬儀が終わったら、焼き場に直行です。母を霊柩車に乗せて、最後の家族旅行です。とは言え、母の生前、父は別の女性と家庭を作ってましたから、この家族で旅行なんてした事ないので“最後の家族旅行”と言うか“最初の家族旅行”と言うか、なんとも複雑な気分になりました。

 ここでも父はフリーダムな行動を取ってましたし、言動も支離滅裂で、息子くんを始めとする孫たちは、それを真に受けて、父に振り回されていました。まあ、それも人生勉強だなって思って見てましたが、若い人間たちは、猫の目のようにクルクル変わる父の言動に、やや我慢ならなかったようです。若い人って、心が狭いよね。

 火葬場という施設は、実に無味乾燥です。何の洒落っ気もなく、何の飾りもなく、ただただ機能的な場所でした。炉に母を入れて、ガーッと焼いて、二時間もすると終了です。その間、手持ち無沙汰なので、昼食を取ります。私はそれどころではないのですが、遠縁の親戚のジイサンたちは酒も入って、それなりに盛り上がってました。おそらく、父をなぐさめているんだろうと思いました。まあ、しんみりしているよりはいいと思いました。

 焼き上がった母は、ほとんど灰になり、骨はほんの少ししかありませんでした。火力が強すぎたのか、母の骨がスカスカだったのかは分かりませんが、おかげさまで、お骨を拾うのが短時間で済みました。骨壷がスカスカなのは、なんか寂しいです。ひとまず母の骨は、自宅に臨時の祭壇を作って飾りました。父が自分で祭壇を作りたかったようですが、文句ばかりで、ちっともカラダが動かないので、私がチャチャっと作ってあげました。だって、その方がきっと母も喜ぶだろうからね。

 その後、初七日、四十九日と、法事を淡々と済ませました。そのたび、いつも父は色々とやらかしてくれましたし、言ってる事も支離滅裂で、あれこれと振り回されちゃいましたが、それも愛嬌です。ふう。

 それにしても、通夜告別式の時は上着を着ることができましたが、四十九日の時は、上着を着ていると、暑くて暑くてたまりません。いつの間にか季節が進んだようです。

 ちなみに、母の骨は、まだ実家にあります。本来ならば、とっくに納骨を済ませないといけないのですが、父がそれを嫌がっているからです。まあ、父が亡くなったら、その時に一緒に墓に入れてやればいいやと考えることにしました。

 母は一年病んで亡くなりました。その一年間で、残された家族は色々と覚悟や準備をする事ができました。死を迎える準備期間としては、一年という時間はちょうどよかったのかなって思いました。何事も周囲への心配りを忘れなかった母らしいです。

 私は母と別れて暮らすようになって、もう30年ぐらい経ちます。最近は、盆暮れにちょっと顔を出して、一緒に食事をするくらいの関係になっていました。私が子供の頃は、家に父が居着いていたことはほぼ無く、お金も入れてくれなかったので、まるで母子家庭のような状況で息子たちを育て上げた立派な母でした。ある年に、家を出ていた父は大病をして、相手の女性に捨てられてしまったので、やむなく母の元に帰ってきたのでした。まあ、誰かが看病しないといけなかったわけです。父が戻ってきて、すでに青年になっていた私は家を出たわけです。だって、家に男は二人いらないからね。

 母は私に会えば必ず、父が戻ってきた事を愚痴ってました。そして湘南から離れてしまい、友人たちと会えなくなった事をボヤいていました。都会生まれで都会育ちの母には、湘南暮らしならともかく、父の田舎は、本当に暮らしづらかったようです。結局、田舎には気の合う友達なんて出来なかったようだしね。服もセンスの良いものがない…と言っては、こっちに出てきて服を買い、そのついでに我が家に遊びに来ていました。

 最近では、それに加えて、父がボケてしまった事も嘆いていました。もしも死んでも父とは同じ墓に入りたくないと何度も何度も言ってましたが…父の手元から母のお骨を取り上げるわけにはいかないでしょうね。

 たぶん母は男運の悪い女なんだと思います。

 母が亡くなっても、私には、不思議と悲しいという感情は生まれませんでした。すでに母とは別世帯で生活していますから、母が亡くなったからと言って、私の生活が変わるわけでもなく、母が亡くなったという実感も特にありません。今も田舎に行けば母の手料理が食べられたり、病院に見舞いに行けば、そこにいるような気がします。だから、母の死を実感できません。ただ、母が死んだという事実だけが、ここにあるわけです。

 母が亡くなっても悲しくはない私ですが、それでもやはり意味なく気分は凹みます。なぜでしょう?

 おそらく、こう見えても、私は平凡な日本男子ですから、デフォルトでマイルドなマザコンが入っているのかもしれません。母の存在がなくなった事よりも、盆暮れに母の愚痴を聞くことが無くなってしまったという事実の方が悲しいです。

 忌も明けたので、ブログ記事として書いてみました。

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コメント

  1. だりあ より:

    すとんさんのお母様も、すとんさんも、お疲れ様でした。
    私が見送った両親も兄弟たちも、けっこう病の期間が長かったので、なので、亡くなったときは、がんばったね、つかれちゃったよねえ・・・、らくになったでしょ?、もう大丈夫だよ、ゆっくりしてね、という気持ちばかりで、悲しいとか寂しいとかあまり感じなくて、明日も明後日もいつでも会えるような気がしてました。何年かしていまごろやっと、もう居ないんだなあとしみじみすることがよくあります。

    自分自身も、考えてみればもう第四コーナー、まわっちゃったようなので、あとはゴールめざして直線コースをひた走るのみ・・・ですね。生きてる身には、いつか自分が死の眠りにつくことを現実と感じることは難しくてはるか遠いです。

  2. tetsu より:

    こんばんは。

    ご愁傷様でございます。

    昔TVで放送された向田邦子の正月ドラマのようで(ごめんなさい)、マジ感動してしまいました。
    ムチャ話は飛びますが、昔学校で無理やり読まされた徒然草を思い出してしまいました。

    死は、前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

    デアゴのDVDにもコメントしようとおもっていましたが、こちらはLPからCDへの切り替えは何とか対応できましたが、DVDは1枚も手元にありません。
    VHSで録画していたオペラも録画しただけのも残り、youtubeで見ようとおもえばいくらでもあって、結局DVDを買ったことがありません。
    デアゴの初巻のCMだけは派手に放送されているのは気づいていました。その後フォローしたこともないのですが実情は何となくわかりました。

    失礼しました。

  3. すとん より:

    だりあさん

     親が召されると「次はいよいよ自分たちの番だな」という気になります。残された人生を悔いなく、楽しく、過ごして行きたいと思うし、それがこれからは何よりの親孝行だと思ってます。親からもらったこの生命、十分に楽しんでこそ、産んでくれた母への何よりの感謝だと思ってます。

    >悲しいとか寂しいとかあまり感じなくて、明日も明後日もいつでも会えるような気がしてました。

     私はまだ、そんな感じです。たぶん、私の心の中では、まだ母は健在なのかもしれません。まあ、無理に死を受け入れなくても、自然にそう思える日までは、普通に生活していればいいや…なんて思ってます。

     これからは親孝行はできませんから、せいぜい妻孝行をしていきたいと思ってます。

  4. すとん より:

    tetsuさん

     ありがとうございます。

     母が亡くなり、いよいよ次は私だな…と思ってます。まあ、その日が来るまで、母の分も楽しく生きてやろうと思ってます。

     DVDの件ですが、要は字幕が問題なんだと思います。字幕が無くても(あるいは英語字幕で)楽しめるなら、別に日本の高価なDVDなど購入する必要はありません。安価な日本語字幕のないDVDを購入したり、それこそtetsuさんのようにYouTubeで十分だったりします。

     私も日本語字幕のないDVDを持っていますし、そういうモノは英語字幕で楽しんでいますが、やはり英語字幕と日本語字幕では、楽さが全然違います。私程度の語学力だと、英語字幕だと意味を取るので精一杯でオペラを楽しめるレベルじゃないんですね。だから、私は少々高価でも日本語字幕は必要なんです。

     ですから、今回のデアゴスティーニのシリーズには期待しているんですよ。安価で良いオペラ上演を日本語字幕付きで販売してくれるのですからね。買わない手はないんです。

  5. wasabin より:

    ご愁傷様です・・・
    人間模様様々・・・色々とお疲れ様でした。

    Anna Bolena の ”Al dolce guidami castel natio” 、次の勉強曲、
    を聞きながら読ませて頂きました。

  6. すとん より:

    wasabinさん

     ありがとうございます。確かに“色々とお疲れ様”ですが、これも順番だし、最後の親孝行ですから、これでいいんです。母のお葬式をきちんと出せたので、きっと私の葬式も、息子くんがきちんと出してくれるでしょう(笑)。それが世の中、順番って奴です。

     こうして世代が交代していき、世の中は前進していくんだと思ってます。

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