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2024 三陸海岸に行ってきた その6 被災地巡りと語り部バス

 ウミネコにかまっているうちに、チェックアウトの時間が迫ってきました。最終日の今日の最初の観光は、ホテル主催の語り部バスに参加することです。

 我々が泊まったホテルは、東日本大震災で大きな被害を受けた南三陸町にあります。当時、ホテルの建物も、従業員の方々も被災され、大変な思いをされたそうです。

 あの地震から13年が経ち、だいぶ復興復旧は進んだものの、当時の震災遺跡などは残っており、被災者だった人も大勢います。そんな語り部の方から、当時の話を聞きながら、現地を回るのが語り部バスです。

 多くの人が亡くなりました。大半の建物が流されてしまいました。今も復興がならずに、ただの野原のままのところがたくさんあります。津波は、街の大半を飲み込みました。病院も役所も民家も、そしてそこにいた人々も、みんなみんな流されてしまいました。あの頃、我々がテレビで何度も見た津波の現場に、今、私はいるのです。

 そこにいるだけで、メンタルがやられてしまいそうになります。

 現地に行き、残った建物の残骸に記された、津波の到達点は、見上げるほど、とてもとても高いところにありました。津波、これは人間が太刀打ちできるようなモノではないと実感しました。

 「津波てんでんこ」という言葉を教えてもらいました。「てんでんこ」とは「てんでばらばら」という意味の方言なのだそうです。つまり「津波が来たら、まずは、てんでばらばらに逃げろ。各自がまずは自分の命を最優先にしろ」という意味なのだそうです。それほど津波とは、切羽詰まった災害なのです。もちろん、逃げる先は高台です。

 小高い丘の上に建っていた学校の体育館の2階のベランダに、震災当時は津波で流されてきた自動車が載っていたんだそうです。この程度の高さでは、津波から逃げられない。津波で逃げるべき高台と言うのは、本当の高台であって、私の感覚では「山に逃げろ」と言われているようなものだなと思いました。

 ビルに逃げるなら、きちんと耐震設計されているビルの5階以上だなとも思いました。だって、津波は5階くらいの高さまでやってきているんだもの。耐震設計ではない建物は、津波の力に負けて、壊されたり、流されてしまっているんだもの。

 そして自衛隊の頼もしさも教えてもらいました。震災直後の被災者の方々の生活を支えてくれたのは、自衛隊の人たちです。ある意味、災害は戦争以上の被害を我々に与えるわけで、それを支えられるのは、もちろん、警察や消防の人の協力も必要だけれど、やはりそこは軍隊である自衛隊なのです。極限状態の人々を助けられるのが、軍隊の力なのです。

 そして被災者の折れかかった心を支えたのは、天皇陛下の御幸だったそうです。天皇陛下が被災地にやってこられて、被災者の人々を励ましてくれた事は、大きな心の支えになったのだそうです。

 被災地巡りの最後に、バスはモアイ公園に行きました。実はここには、イースター島の石で彫られたモアイがあります。イースター島の石で彫られたモアイは、イースター島以外では、ここ南三陸町にしかないのだそうです。

 なぜかと言うと、これも津波関係の話となります。1960年のチリ地震による津波で、南三陸町は大きな津波被害を受けたそうです。で、これがきっかけとなり、南三陸町は、チリと友好関係を作り、草の根の交流をしてきたのだそうです。今回の東日本大震災で、多大な被害を受けた南三陸町の人々を励ますために、チリの人たちはイースター島から石を運んで、南三陸町でモアイを彫ってくれたのだそうです。それで貴重なモアイ像が南三陸町にあるわけです。

 語り部バスの後は、いつもの観光バスに乗り換えて、南三陸さんさん商店街に行きました。この商店街は、震災復興祈念公園の隣にあって、旧防災対策庁舎を眼下に見下ろせます。このあたりでは、津波の高さは16.5mだったそうで、今ではその高さに道が作られて、津波の大きさが実感できます…が、その道を歩いてみると、当時の防災対策庁舎(今も骨組みだけ残っています)が、かなり低い場所(当時の地面なのです)に建っている事が分かります。ここには、最後まで町民に放送で避難を呼びかけた市の職員がいたそうです(その方は今も行方不明なのだそうです)。

 私も湘南という海辺に暮らしている人間です。関東大震災の際には、東京の大火災ばかりが伝えられていますが、実は湘南地方は、津波や地割れでだいぶやられているわけです。津波被害は、決して他人事ではないのです。南海トラフ地震がやって来るとか来ないとか言われていますが、やって来れば、おそらく湘南地方には、津波が襲ってくるでしょう。一応、その時にどう動くべきかは、常にシミレーションしていますが、出来れば地震が来るよりも早く、私自身が死んで、地震被害/津波被害から逃げ切りたいと思ってます。だって大変そうなんだもの。

 ちなみに、さんさん商店街では、天皇陛下もいらっしゃったと言われる蒲鉾屋さんで、笹かまを買いました。私はきちんと被災地にお金を落としてきましたよ。

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コメント

  1. オペラ座の怪人の怪人 より:

    すとん様
    先日は、フワの親の顔が見たい、の書き込み投稿で、
    つい、うっかり、全く意図的でなく、
    名前(オペラ座の怪人の怪人)を書き忘れました。
    申し訳ありませんでした。

    さて、本日は東日本大震災後の海辺のお話ですね。
    私も、当時、震災の2~3か月後だったと思いますが、
    2度、現地に行きました。
    でっかいバスが建物の上に乗っかっているのも、
    この目で見て、衝撃的でした。

    2度とあのような悲劇がないように、と祈りたくなりますが、
    地震大国にして、防災が後手後手大国の日本、
    再び、そのような悲劇が起こるんでせうな~。

    それにしても、当時の防災大臣(だったかな?)
    「あの震災が東北で良かった、関東だったら、もっとひどかった。」
    と発言し、なんてひどい発言だ! と怒った私。
    安倍総理が即クビにしたのは当然でした~。

    (/_\;) (/_\;) (/_\;)

    (-A-) (-A-) (-A-) ← ざっくぅ

    おしまい

  2. すとん より:

    オペラ座の怪人の怪人さん

     震災後、2~3ヶ月と言ったら、災害の爪痕がまだまだ生々しい時期ですね。戦争を知らない我々世代にとって、震災はそれに匹敵する、国家的大災害で、できれば避けたい災害ですし、被災した方々の大変さに心を痛めます。

     震災は天災ですからね。日本列島に住んでいる限り、避けることのできない災いです。それは我々の遺伝子に刻み込まれている災いであって、私は日本で怪獣映画が製作される理由の一つとして、怪獣が大災害をゆるキャラ化したものだからだと思ってます。あのゴジラが“原爆のゆるキャラ”であると考えるわけです。不謹慎な考えかもしれませんが…。

    >「あの震災が東北で良かった、関東だったら、もっとひどかった。」

     本音は言っちゃいけないんだよ。

     かつての関東大震災の被害って、歴史的事実としてよく語られますが、あたかも東京で地震が起こったような伝えられ方をするのだけれど、あの地震の震源地って相模湾なのです。私が住む湘南地方なんて、モロに震源地に面しているわけで、地震と火事だけでなく、津波も地割れも地すべりも土石流もあって、そりゃあ大変だったそうで、東京どころの騒ぎじゃないんだけれど、そういう事って、ちっとも語られないんだよね。

     南海トラフ巨大地震が本当に来たら…怖いなあ。それを思えば、早く死んで、震災災害から逃げ切りたいです。

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